何をもってアイドルとするか、アイドルの定義というのは、何人集まってどれだけ議論を重ねても、定まらないかと思います。私自身、もう四半世紀もアイドルにこだわってきたものの、その定義については、明解な言葉で説明することはできません。人の数だけ“アイドル像”があるのかもしれません。それに、どんなジャンルであっても、アイドルが取り組めばアイドルになってしまうという点も、アイドルの面白みであると思います。
一方で、我々はアイドルについて語り合うことができます。素晴らしいアイドルに出会えた時に、喜びを分かち合うことができます。そこにはやはり、アイドルにこだわる者が持つ共通の意識があるのではないかと考えられます。言葉にはできない何か、アイドルにこだわるとき、誰にとっても外せない部分があるのではないでしょうか。
今は、アイドルブームのようです。もしかしたら、有史以来もっともアイドルがたくさんいる、アイドルの現場がたくさんある時代なのかもしれません。昔はアイドルと言えば全てメジャーレーベルだったわけですから単純比較はできませんが、それにしても、首都圏はおろか、全国にそれぞれ活動するアイドルがいるという現状は、アイドル冬の時代を知ってる者からすれば、驚くばかりです。
ですが、そうしたシーンにおいては、残念ながら、アイドルと呼ぶには眉をひそめたくなるような存在も、アイドルを名乗り、アイドルと呼ばれているというのも、また現在の一側面です。
「どんなものも、その9割はカス」(スタージョンの法則)であるならば、アイドルもまたそうなのでしょうか。いやそもそもアイドルなんて100%カスだろー!と言う人もいるだろうし、言わんとするところはわかります。元より、コーショーなゲージュツではありません。しかし、我々はそういうアイドルにこだわりを見出しているのです。だから私は言葉を綴り、あなたはこれを読んでいるのだと思います。
ITの進歩による技術革新は、資本力による格差を縮める「チープ革命」を起こしました。また、近年のAKB48の商業的成功により、アイドルは再び人々の羨望を集める存在となりました。しかしブームの宿命でもありますが、「チープ革命」が劣化コピーをいとも簡単に生み出すことをを可能にしてしまいました。なんのこだわりもなく、チェックのスカート履かせていっちょう上がりといったインスタントな何者かをアイドル扱いし、騒げればなんでもいいようなヲタクですらない人々がそれに群がります。
当人同士が楽しければそれでいい?身内の宴会ならそうでしょう。それなら私だってこんなところで言及することも無いです。
しかし、それらを“アイドル”として扱ってよいものでしょうか。そうした安易なニセモノをアイドルとして囃すのは、シーンそのものの凋落を招くのではないでしょうか。
また、AKB48の商業的成功により、“異業種参入”もしばしば目にするようになりました。先に述べたように、アイドルは様々な要素を取り込んで可能性を広げているわけですから、それ自体が悪いわけではないです。
しかしそれは、アイドルであるという“柱”がしっかりしていればこそです。アイドルにこだわりを持つ者誰しもが共有する部分を逸脱し、それをアイドルと言いくるめて、違うことをやっているような方々も見受けられます。言わば“名ばかりアイドル”です。
こうした、アイドルの皮をかぶった別の何かが幅を利かせるようでは、アイドル本来の趣がないがしろにされていってしまうようで、心配でもあり、悲しくもあります。
アイドルには様々な可能性があります。とはいえ、アイドルであるという部分にはこだわって欲しいし、我々はそうしたこだわりを大切にしていかなければならないと思うのです。
幸い、今はネットで、様々な人と意見を交わすことができます。
ネットでも、リアルでも、我々一人ひとりがもっともっとアイドルについてのこだわりを語らい、言葉を交わし合い、積み重ねて、アイドルに対するこだわりを様々な形で明示していくことが、アイドルにとって大切な部分を残していくことにつながるのではないかなあと考えます。