AKB48が「フライングゲット」で日本レコード大賞を受賞したとのこと。
これがAKB48の偉大さを物語るであろうか。否!断じて否!
あえて言おう、カスであると!昭和の遺物と化したレコード大賞とやらが、AKB48を権威付けることにはならないと、私は断言する。
それにしても、秋元康ほどの傀儡師ならもっと面白いもの見せてくれると思ったのだがな。美空ひばりでまだ満足しないのかよ。とんねるずがパンツ一丁で紅白出たように、レコ大なんか笑い飛ばしてやればいいのに。「まー俺がやればこんなもんっすよ。メンバーとか誰でも良かったし」ぐらい言えば、年末年始の話題を独占できたものを。
今や一人ひとりが自分の価値観で情報を集め、発信し、判断してるご時世に……いや、しなければならないご時世に、一握りの人間が密室で決めた賞とやらになんの意味があろうか。なんの重みがあろうか。
AKB48は、その出自から今に至るまで、常に批判と隣り合わせだった。そして、それをはねのけるためにも、数字という実績が必要だったのだ。自分たちでモノの善し悪しを判別できないバカどもを黙らせるにはそれしかなかった。
売れる前は怪しげだと罵られ、売れたら売れたで裏があると叩かれる。
そして、その批判の矢面に立たされてるのは、いつもメンバーだ。
総合プロデューサー様の思いつきも、電通のゴリ押しも、デフスターの無能も、その批判はいつもメンバーに向けられてきた。ほとんどが未成年の、社会の右も左もわからないようなメンバーに。その負担、その苦悩は、想像するに忍びない。
若くして頭角を現したプロスポーツ選手なども同様の苦悩はあるだろう。だがプロスポーツ選手と違うのは、彼女らがアイドル・エンタティナーであるということ。人を楽しませる仕事だということだ。批判に対して力で跳ね除けることも、数字を出して勝ち誇ることも、許されない。
オリコン1位を何度重ねても、ミリオンヒットを連発しても、どうせオタクが何百枚も買ってるだけと揶揄される。
そんな彼女たちが、世間に認められた証として、メンバーやファンと分かち合う宝物として“レコード大賞”を喜んだとしても、誰が責めれられよう。
だが、本当に大切なのは、ギョーカイのおっさんどもが談合して決めた賞なんかではないのだ。
彼女たちは、特に初期メンと言われる創立期のメンバーは、まだ世間が見向きもしなかった頃から、ひたすらステージに立ち続けてきた。毎日、毎日、文字通り毎日だ。空席が目立つ劇場と、先の見えぬプロジェクトに、不安になったことも一度や二度ではあるまい。それでも、明日を信じて、自分を信じて、必死に走り続けてきた。
その結果、彼女たちは自分たちの力で、劇場を満員にした。その後も、ステージが大きくなるたびに、プレッシャーと戦いながら、一歩ずつ一歩ずつ進んできた。その結果が今日の栄光なのだ。
メンバーが繰り返し口にする“ブームはいつか終わる”、盛者必衰の理はAKB48と言えど逆らえないだろう。だが、諸行無常ならば、衰えてもまた再び盛り返すことができるはずだ。今までの歩みの中で手に入れたのは、自分で自分を磨いて、輝かせることができる自分自身なのだから。
どんなトロフィーよりも輝いている彼女たちの素晴らしさの証は、賞でもなんでもない、彼女たち自身なのだ。そして、彼女たちと同じ時代に生きる我々一人ひとりこそが、その証人なのだということを心に刻んでおきたい。